下地という雰囲氣
何でも言ってね、全部話してくれていいからね、
と言ったとしても
そうするか、しないか、できるか、できないか、
そういうことは下地という一種雰囲氣があるか、ないか、でおのずと決まっていく。
いくら口で言って
頭で理解して
そうしようと思ったとしても。
たとえば、何でも話していい
という場を創りたいなら
そういう文化土壌とわずかでも歴史があると
ある状況になったとき
「よし、言ってみよう」
となるのだろう。
そういう場を創るには、
土づくり、だから
いろいろな要素があってこそよくなるんじゃないのかな。
お日様、雨、いきものなどなど
つまり流行りの「多様性」かもしれない。
土づくり、だからね。
しかも、目にはみえない土だから。
養分はよく感じてみないとね。
ふしあわせじまん
ふしあわせじまん。不幸せの自慢。
私なんてこんなひどい病気なのよ、
俺のほうなんて実はこうなんだ、
自慢に聞こえてしまいますが。
優しい言葉を求めているのか、と思うでしょ?
そうではあるのですが
エンドレスに近く続くところをみると
ただ聞いてほしい
んでしょうか。
この「ただ」「きく」
というのがまた難しくて。
いろいろ聞きながらも頭で判断しちゃって
それが伝わっている、という。
心の反論や自分の考えが。
ただきく
ということが解決への道だとわかっていても、ね。
ニンゲン同士。お互いさま。